Mrs. GREEN APPLE(ミセス)『天国』の歌詞とその意味について考察していきます。
この曲は、映画『#真相をお話しします』(2025年4月25日公開)の主題歌として書き下ろされた一曲。
愛しているのに、同じくらい憎んでしまう。祈りながらも、心は少しずつ腐っていく。『天国』は、そんな相反する感情を包み込み、聴く人にそっと差し出すような曲です。
本記事では、歌詞に込められたメッセージをフレーズごとに丁寧に読み解き、楽曲全体を通じて伝わる深い意味を探っていくので、ぜひ最後までご覧ください!
あくまで筆者自身が解釈したものになるので、一つの参考として受け取っていただけると幸いです。
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Mrs. GREEN APPLE『天国』歌詞
歌手:Mrs. GREEN APPLE
作詞:大森元貴
作曲:大森元貴
収録:配信シングル『天国』
発売日:2025年5月2日(金)
もしも
僕だけの世界ならば そう
誰かを恨むことなんて
知らないで済んだのに
どうしても
どうしても
貴方の事が許せない
夜は ただ永い
人は 捨てきれない
見苦しいね
この期に及んで 尚
朝日に心動いている
抱きしめてしまったら
もう最期
信じてしまった私の白さを憎むの
あなたを好きでいたあの日々が何よりも
大切で愛しくて痛くて惨め
もしも
あの頃、お日様を浴びた布団に
包まる健気な君が
そのままで居てくれれば
どれほど
どれほど良かったのか
もう知る由もない
あぁ またお花を摘んで
手と手を合わせて
もうすぐ其方に往くからね
心に蛆が湧いても
まだ香りはしている
あの日の温もりを
醜く愛してる
どうすればいい?
ただ、ともすれば もう
醜悪な汚染の一部
なら、どうすればいい?
いっそ忘れちゃえばいい?
そうだ 家に帰ってキスしよう
どうすればいい?を
どうすればいい?
腐ってしまうこの身を
飾ってください
私のことだけは忘れないで
抱きしめてしまったら
もう最期
信じてしまった私の白さを憎むの
あなたを好きでいたあの日々が何よりも
大切で愛しくて痛くて惨め
あぁ またお花を摘んで
手と手を合わせて
もうすぐ其方に往くからね
心に蛆が湧いても
まだ香りはしている
あの日の温もりを
醜く愛してる
あぁ 天使の笑い声で
今日も生かされている
もうすぐ此方に来る頃ね
あの頃のままの君に
また出会えたとして
今度はちゃんと手を握るからね
『天国』歌詞の意味&楽曲背景
この曲『天国』は、大切な存在を失った人が、その人への想いと向き合い続ける物語です。忘れられない思い出や香り、手のぬくもり。それらは愛おしい一方で、同じくらい強い憎しみや自己嫌悪も生みます。
歌の中で語り手は、まるで仏壇に花を手向けるように祈りながら、時に自分の心の中の腐った部分を認め、受け入れます。サビでは「抱きしめたらもう最期」と、愛が別れを呼ぶ怖さを告白しますが、それでも最後は「今度はちゃんと手を握る」という小さな約束で締めくくるのです。
大きな奇跡や救済はなくても、ほんの小さな手のぬくもりが、心を生かす。その現実的な救いを描いた作品になります。
公式MVの紹介
YouTubeにて公開されている公式MVがこちら。
ここからはフレーズごとに歌詞考察をしていきます。
1番:歌詞の意味
冒頭1番Aメロの歌詞。
もしも
僕だけの世界ならば そう
誰かを恨むことなんて
知らないで済んだのに
どうしても
どうしても
貴方の事が許せない
まず冒頭の仮定法〈僕だけの世界〉は、”倫理的に無垢でいられる仮想空間”の提示ではないでしょうか。ここでの「僕」は自己の理想自我。その直後に「どうしても許せない」が叩きつけられ、理想=無知(恨みを知らない)と現実=憎悪が真正面衝突します。
ポイントは、「許せない」の矛先が”相手”だけでなく、自分が信じた世界観にも向いていることです。“許しを知っているはずの自分が、許せない地点にいる”という二重の失望かもしれません。
それは自己像の崩落であり、以降の自己嫌悪(白さを憎む)への伏線にもなります。
さらに注目したいのは、一人称のゆらぎです。ここでは「僕」、のちに「私」が登場します。語り手の”内的分裂”(理想の声=僕/現実の声=私)として読むと、歌全体の対話劇構造がくっきり見えてきそうです。
大森くんはしばしば、相反する感情を同一人物内に同居させるような歌詞を書き、短い言葉で人格のフォーカスを切り替えます。これが聴き手に”自分の中のもう一人の自分”を想起させ、没入を促すのです。
続く1番Bメロの歌詞。
夜は ただ永い
人は 捨てきれない
見苦しいね
この期に及んで 尚
朝日に心動いている
ここは時間の体感の描写になります。〈夜はただ永い〉は”心理的時間の伸長”を示し、心的外傷や後悔の反芻を想起させます。
〈見苦しいね〉は自己罵倒ですが、“ね”の助詞により自他の視線が混在。まるで自分を外側から見下ろすカメラがあるようです。
そして決定的なのは〈この期に及んで尚 朝日に心動いている〉という歌詞。ここには希望の残存が露呈します。絶望の最中に差し込む”朝日”は、本来なら救済の象徴です。しかし大森くんはそれを見苦しさと結びつけます。
つまり”希望を持つ自分が嫌い”ということではないでしょうか。この自己嫌悪のねじれが、清らかなもの(朝日)すらけがしてしまう罪悪感を育て、のちの「白さ」のモチーフにつながっていきます。
そして1番サビの歌詞。
抱きしめてしまったら
もう最期
信じてしまった私の白さを憎むの
あなたを好きでいたあの日々が何よりも
大切で愛しくて痛くて惨め
ここでは「抱きしめる」ことが”最期”に直結するという過激な因果が歌われます。
①喪失読解:死にゆく誰かを抱く最後の抱擁。
②共倒れ読解:抱けば境界が壊れ、二人とも堕ちる(依存・自壊)。
③記憶固定読解:抱けば”最後の像”として永遠に凍結される。
どの読みにも共通するのは、”接触=不可逆”という恐れです。
続く〈私の白さ〉は、道徳的純白/ナイーヴさ/洗濯物の白(のちに”日向の布団”が登場)の多義を帯びた核語になります。信じた自分の純白を憎むとは、「信じたから傷ついた」ことへの自己責任化ではないでしょうか。
さらに〈大切で愛しくて痛くて惨め〉の四段畳みは、肯定語(大切・愛しい)に否定語(痛い・惨め)を連続させる快/不快の同時進行で、愛の後遺症を身体感覚として刻みます。
大森くんの書くこの歌詞は、アクセルとブレーキを同時に踏むような語列で、聴く人の矛盾耐性に火をつけるのです。
2番:歌詞の意味
2番Aメロの歌詞。
もしも
あの頃、お日様を浴びた布団に
包まる健気な君が
そのままで居てくれれば
どれほど
どれほど良かったのか
もう知る由もない
このパートの要は、嗅覚と触覚による記憶の召喚です。ここで提示される「お日様を浴びた布団」は、単なる”清潔”や”安らぎ”の象徴ではなく、無垢の生活圏をまるごと立ち上げるトリガーになっています。
重要なのは、語り手が思い浮かべるのは”人物像”というより風景と体感である点ではないでしょうか。人の輪郭を描くのではなく、温度・匂い・肌触りという五感から「君」を立ち上げる。これにより、記憶は観念ではなく身体に沈殿したものとして迫ってきます。
さらに「そのままで居てくれれば」という嘆きは、君の変化(あるいは損失)だけでなく、語り手自身の”白さ”が維持できなかった後悔も匂わせます。
1番で「あの白さ」を憎んだ語り手が、2番ではその白さを”生活の手触り(干した布団)”へと再配置している点が秀逸ですよね。つまり”信じて傷つく白さ”から、”もう戻れない白い日常”へ。白の意味が倫理から生活へとスライドし、その分だけ喪失は個別で、手が届かないものとして際立ちます。
そして「もう知る由もない」という断絶の言い切りは、時間を巻き戻せない悔いの確定宣言ではないでしょうか。ここで語り手は、理想化した”君の無垢”だけでなく、自分がその無垢を保持できなかった事実にも向き合わざるを得なくなります。
2番Aメロは、美しい記憶を抱くほどに自己責任感が増幅する地点なのかもしれません。
続く2番Bメロの歌詞。
あぁ またお花を摘んで
手と手を合わせて
もうすぐ其方に往くからね
心に蛆が湧いても
まだ香りはしている
あの日の温もりを
醜く愛してる
前半部分は「またお花を摘んで」「手と手を合わせて」「其方に往く」という言葉の選択が鮮烈です。ここには弔いの身振りと越境(此方⇄其方)が同居しています。
「往く」の表記(”行く”ではなく”往く”)が示すのは、単なる移動ではない遷移です。俗の側(此方)から聖性や死者の側(其方)へ向けた一方通行の志向が、ことばの質感で表現されているように感じました。
そして、注目したいのは「また」という副詞です。儀礼が反復されている。これは喪の作法を日常化してしまうほど、語り手が彼岸に通い慣れたことを匂わせます。つまり、これは”たまたまの悲しみ”ではなく、生活の一部となった悲嘆だということでしょう。
弔いが習慣化するとき、人はしばしば生と死の境目の感覚を失いがちです。2番Bメロ前半は、語り手が生の側でありながら死の側へ寄り続けている危うさを提示しているように感じました。
そして後半部分は、「心に蛆が湧いても」「まだ香りはしている」という凄味のある対比です。ここでの蛆は”道徳的腐敗”の比喩に留まりません。むしろ、感情の分解過程を視覚化する装置なのだと思います。
恨み、妬み、自己嫌悪など、それらは時間をかけて内側から自己像を崩すのです。この”腐る”進行が生々しい生物像で表現されることで、語り手の心は自然と同じ法則に支配される存在として描かれます。感情は”気持ち”ではなく、生理的な現象として扱われているのではないでしょうか。ここに大森くんの冷徹さを感じますし、これが魅力でもあるのだと思います。
対して「香り」は、記憶の保存媒体です。腐敗は進むのに香りは残るというねじれが重要だと感じました。身体(心)は崩れるが、経験の記憶は漂い続けるのです。匂いが持つ無意識レベルの再生力によって、「あの日の温もり」を倫理的評価(きれい/きたない)を越えたところで回帰させているのではないでしょうか。
極めつきは「醜く愛してる」。
愛は本来「美しく語られたい」欲求を持ちますが、語り手は美を放棄してなお「愛してる」を言い切ります。これは”愛情の正当化”ではなく、劣化した自分でもなお手放さない核心の確認なのかもしれません。理想像を捨てたあとに残る”それでもの愛”なのだと思います。2番Bメロは、倫理より下に沈む愛の存在を告げているように感じました。
その後Cメロの歌詞が続きます。
どうすればいい?
ただ、ともすれば もう
醜悪な汚染の一部
なら、どうすればいい?
いっそ忘れちゃえばいい?
そうだ 家に帰ってキスしよう
Cメロの「どうすればいい?」の反復は、強迫観念のリズムではないでしょうか。単なる迷いではなく、問いそのものが自己増殖していく状態を、短いフレーズの連打で表現しているのだと思います。
そして、ここで唐突に出てくる「醜悪な汚染の一部」という自己規定。語り手は、ただ被害者でいることを拒み、自分もまた汚れの循環を拡げる分子なのではないかと疑っているのかもしれません。
恨みや憎しみは伝播する。感情は公害のように拡がるという視点です。1番では”自分の白さ”を憎む段階でしたが、Cメロではさらに踏み込み、自分が外界へ汚染を撒き散らす側に立つ怖れまで抱いているということではないでしょうか。
その後、突然「家に帰ってキスしよう」という生活語への落下。この落差は単なる現実逃避ではありません。大きすぎる問いは、しばしば小さな所作でしか人間の神経系に戻せないということだと思います。
キスは言語化しえない慰めや和やかさを感じさせる行為であり、「赦し」や「真相」といった概念の解決を身体の合図に置き換える動きです。つまり、倫理の難問を身体の合意へとスライドさせるているのではないでしょうか。
世界の濁りを一挙に澄ますのではなく、目の前のひととの接触で”今日を越す”。このミニマルな選択が、Cメロの核心なのだと感じました。
Cメロ後半部分の歌詞。
どうすればいい?を
どうすればいい?
腐ってしまうこの身を
飾ってください
私のことだけは忘れないで
「腐ってしまうこの身を飾ってください」は二重に読めます。
ひとつは死化粧のイメージ。朽ちゆく身体を”最後にきれいにして”という弔い的な願い。もうひとつは自己演出。崩れた私でも誰かの目に耐えうるように”整えてほしい”という承認の欲求です。
そのすぐ後に置かれる「私のことだけは忘れないで」は、存在の生存期限を他者の記憶に託す叫びのように感じます。赦しや理解といった崇高なことよりも先に、「忘れられたくない」という人間の根源が出ているのではないでしょうか。
ここでこの曲は、”美しい愛の物語”から一歩引いて、記憶に残ること=生き延びることという生存戦略を正直に提示しているのかもしれません。
Cメロ後半は、死と承認がシームレスにつながる地点で、語り手の弱さではなく生への執念として読むべき部分だと感じました。
2番サビとラスサビ前半の歌詞は1番と同様のため割愛。
そしてラストはこの歌詞で終わります。
あぁ 天使の笑い声で
今日も生かされている
もうすぐ此方に来る頃ね
あの頃のままの君に
また出会えたとして
今度はちゃんと手を握るからね
ラストにサビが再来し、最後には「今度はちゃんと手を握る」という微修正が置かれます。ここがこの曲の倫理的決着点です。
「抱きしめる」ことは境界を無くすことであり、語り手にとっては”最期”と等号で結ばれてきました。それを「手を握る」にスケールダウンすることで、境界を保ったままつながるという新しい手法を提示しているように思えます。
過剰に一体化を望む気持ち(抱擁)は、相手も自分も焼き尽くす。だから持続可能な距離(手を握る)へ。これは恋愛倫理だけでなく、喪の作法としても機能します。亡き人(あるいは失った関係)と”抱き合う”のではなく、記憶と”手を握る”ことで、過去と今を無理に溶かさず、二つの岸のまま結び直す発想なのではないでしょうか。
「天使の笑い声で今日も生かされている」という受動文は、他力の受け入れを言い表しているのかもしれません。自分の力で立つのではなく、誰か(あるいは音楽・子ども・記憶)の笑い声に生かされているということ。
ここで語り手は「強くなる」わけではありません。強くならないまま、生かされることを受け容れる弱さの勇気に着地しているのでしょう。
そして「また出会えたとして」「今度はちゃんと」という仮定法と誓い。これは過去の失敗を踏まえた小さな改善の表明で、ドラマティックな救済ではないからこそ、現実の私たちの手の中に残るエンディングになっているのではないでしょうか。
『天国』は、”白くあること”をやめないための歌ではありません。
白くあろうとして傷ついた自分を、なお抱え直すための歌になります。
抱きしめて溶け合うのではなく、手を握って共に生きる。
そのささやかな誓いで、私たちを何度でも救ってくれるはずです。
ぜひ歌詞の意味にも注目しながら、この曲『天国』を聴いてみて下さい!
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